人類文明 まさにクライマックス(1)
以前から何度か僕が口にしている言葉があります。自分の命を養う正味の汗を自分で認識すること、要するに自分の食べるものは自分で作るということです。これは賄うということでもあり、まさに取ってくるか、栽培するか、まわりの環境と自分を織り成して命をつなげることになるわけですが、皆さんもお分かりのように、まずは太陽光線と水と大地の三つがそろった上で、あとはその上に既に存在する他の命、植物や動物、あるいは眼には中々目につかない微生物までも含めてということになるでしょうが、そういうものを取りこむことによって自分の命は支えられている。口で言うのは簡単ですが、この条件を全て自分の暮らしの中で整えるには、応分の汗と知恵、あるいは経験が必要です。自分の命が何のおかげで今ここにあるのか、その背景について思い巡らすことは今の世の中では大変難しくなっています。それはいいかえると自分の命を養うのにふさわしい正味の思念といって良いと思います。正味の思念をさらに言い換えれば、人という存在の持つ欲望の部分を自覚認識し、それをコントロールする思考力と言ってよいものでしょうか。
人間の人間たる所以は、考える生き物としての存在です。だから、考えるということについて、自分自身でもあるいは周囲の人々との間でも納得するに足る手ごたえのある考える力を示すことが求められます。我々の眼ではその人が何を考えているかは見えません。汗をかいている姿は目にできます。しかし目にはできてもそれを同じように行うことがどれほど重いものかは自ら体験してみなければわかりません。思考力は目に見えませんから何を考えているのか、表現し伝えることはとても難しい。証を立てる必要があります。何を持って証とするかは一概には表現できませんが、例えば寝食を忘れて取り組むという言葉があります。自分が本当にしたいこと、それを手掛けることができているときは寝ることも食べることも忘れてしまうほどに夢中になっている様を言います。これは意図して証を立てているとは言えませんが、周りの人が見ればこの姿は本気だ、この人のしていることは本物だ、そういう気迫が伝わるでしょう。
ところがまさに有史以来、言葉を用い、貨幣を使い始めた人類は、この大本の感覚を自分のものとして自覚する機会を失ってしまった。先住民と言われている人たちは、つい最近までは未開の民、野蛮な人々というような侮蔑的な言葉の中に現代文明からほど遠い人々として意識されてきました。千年一日のごとき生活様式、現代の文明の上に居座っている人々から見れば、何の面白みも楽しみも見受けられないような単調な暮らしと映っても仕方がなかったでしょう。でも、文字を持たなかったかもしれませんが、彼らの頭の中には我々現代人が及びもつかぬほどの自然に対する認識力、それは例えば植物の名前や薬効、どんなものが食べられ、どんなものが食べられないか、食べるのには向かないが薬用としては役に立つ、そのような植物を見分ける力が人々と頭の中には整理されていたようです。彼らは必要以上の殺生をしない、まさに自然の大循環の中に自分たちの暮らしを織り込んでいました。意識していたかどうかは別にして、自然の大循環の輪の中に組み込まれていたわけです。
ひるがえって現代の文明人と言われる我々は、その大循環の輪をずたずたに断ち切ってしまった。以前、私は人間を食物連鎖の頂点というような言い方をするのは不適当で、食物連鎖そのものを認識する要のような存在だと言い換える必要を口にしたと思います。本来、正味の思念とは食物連鎖の大循環を認識する力と言えるのですが、現代人の殆どはそのことを意識することすらありません。この半世紀の間の自然科学者たちの研究によって、人類の繁栄の影でどれほど多くの種が絶滅を重ねてきたのかが明らかになってきていました。これは考える存在としての生き物としては全く恥ずかしいことで、本来、このことだけでも大いに恥ずべきことです。それを恥とも思えぬ現代の我々の姿。人類がアフリカに誕生して多分20万年ほど経っているのでしょう。そして文字を持っていわゆる有史以来の縄張り争いを始めたのは、7~8千年前からのものでしょうか。大雑把な言い方は許してください。以来、今日に至るまで人々は縄張り争いの戦乱を重ねてきました。殺さなければ殺される、奪わなければ奪われる、少しでも縄張りを広げ、大きくなること、強くなること、それが生き延びるための至上命題となりました。その行き着いたところが今日の我々の姿です。
これ以上大きくなって、あるいはこれ以上強くなって、何を実現しようというのでしょうか。有史以前は、助け合い支えあって生き抜いてきた人類が、有史以来、勝つことを最優先して栄枯盛衰を繰り返してきました。支配する側に回った人間は、自ら正味の汗を流すことを忘れ、自分の支配下に置いた人々を奴隷化し、食物生産を担わせてきました。そして一度、その味を占めた支配者側は、支配される側になることを極度に恐れ、怯え、武器の開発に力を注いできました。正味の汗をかくことを忘れたが故に正味の思念も見失ってしまったのです。お陰で、あたかも戦うのが人間の性だとさえ思いこまされるような歴史を重ねてしまいました。
それらのことを助長するのに役に立ったのが貨幣というとんでもない代物です。貨幣が登場して正味の汗は測り難くなりました。その分マネーゲームが跋扈しました。今人々は理想を語ることすらしなくなりました。共産主義、社会主義が社会の理想の姿として描かれた時代がありました。100年前ソビエトが誕生しました。当時の知識人が大いに期待しましたが、その後の100年で理想は泥にまみれてしまいました。考え方が悪かったわけではありません。共産主義、社会主義が当時の有産階級、富裕層を震え上がらせてしまったのです。革命が広がらないようにありとあらゆる手段を弄したに違いありません。おかげでソビエトはハリネズミになってしまいました。いつ体制転覆が図られるかもしれないという不安と恐怖が彼らを軍事大国化させる道を歩ませました。強力に進めるための一党独裁も仇となりました。一方の西側と言われた国々は、持てる経済力、資本力を総動員して人々の暮らしを豊かにすることで目をくらまそうとしました。おかげで人々の欲望をセーブする自制力が損なわれることになりました。挙句の果てが今日の姿です。この先に描かれる絵は今までの延長線上にはありません。貨幣という魔物を使ったマネーゲームは止めなければなりません。武器もなくさねばなりません。これこそ今の政治の至上命題です。しかし実現には巨大な壁が立ちはだかります。この壁については改めて口を開きたいと思います。我々の眼のうろこを落とすことが先決なのです。それができたからと言って、明るい展望が開かれるとも限りません。でも、誰かが語らねばなりません。そして皆が理に沿った行いを確実に行わなければならないのです。