都市の人々の足を大地の上に向かわせる

 述べてきたように、都市というのは、都市に住む人たちが無自覚的に様々な生産物を過当なサービス競争のあおりをくって過大に消費してしまいがちな、実に制御の難しい人の密集する居住地帯です。嫌味な言葉で言うならば、自然生態系に対して、あるいは農林畜水産物、一次産業生産者に対して、都市そのものが無自覚的収奪システムとして機能してしまうのです。そして今や、様々な工業製品の成果として作り出された商品が大量の資源を使いながら、国全体に送り込まれていくわけです。この流れは、都市として人が集まる以上、止めようがない増殖を続けると思うのです。都市で職業人として働く以上、それがサービス業であれ、製造業であれ、常に商品を供給しなければ暮らしが成り立たない。止めようと思うならば、一人でも多くの人が少しでも都市から足が抜けるような暮らしを一方で確保しなければならない。かつてロシアで経済危機が起こった時に都市の郊外にダーチャ(家庭農園)を持った人々が苦境をしのげたことは語り草となっています。

 少しでも多くの人が食糧生産のできる足掛かりを持っているかいないかで、都市の膨張に対するブレーキの度合いが決まるわけです。だから、政治的にいうならば、それが先進国といわれようと、発展途上国といわれようと、いかに都市の膨張をおさえるか、人々の足を大地の上に向かわせるか、それが大きな方向性として示されることになるでしょう。

 日本で言うならば、生活保護を受ける方々には、できるだけ早く土地や住宅の手当てができる行政のシステムを用意してもらいたい。

 時間がかかるかもしれませんが、都市から一人でも多くの人が大地の上に足を進められるよう、町での仕事が減った分だけ、例えば、週3日都市にいて、残りは地方にいて食べ物の自給に励むというような暮らしが少しでも進むようになれば、一人当たりのGDPがいくらだとか、そういう数字の比較は意味を失うでしょう。

 衣食住の自給が少しでも進めば、収入は少なくとも、それなりに豊かな生活が実現するのです。報酬の多寡で人を評価するような時代はもう卒業しましょう。人々が都市から足を抜けやすくするには、公共交通機関の運賃も安いに越したことはありません。安全はもちろん、確保しなければなりませんが、快適さを誇るようなお金のかかる客車を作る必要はないのです。人が安心して移動できればことは足りるわけで、終戦直後のデッキからはみ出すほどの鈴なりの列車はごめんですが、普通列車で人々がこまめに移動できるような便宜をはかれば、そして運賃が安くなっただけ人々が使うようになれば、採算を心配することもなくなってくるのではありませんか。

 先々には、地域間格差をなくすという意味でも公共の交通機関は無償にしてよいと私は思っています。ベーシックインカムが実現すれば、あくせく働くという仕事はなくなるでしょう。社会に本当に必要な品物を供給する生産活動の再生産に必要なお金は、当然工面されなければなりませんが、過剰な利益を生み出すような価格設定は控えるのが当然でしょう。

 未だに流れは止まっていませんが、何でもかんでもビジネス化し、あるいは新製品を開発しては次から次へと買い替えを促すよう、部品の在庫期間も、新製品そのものの耐用年数も長いとは言えない家庭電化製品。これ以上どれ程の便利な機能をつけ足したら気が済むというのでしょうか。メーカーが異なり機種が異なれば操作するのも簡単にはいかない。部品などの交換もままならない。たくさんの在庫を必要とする。このような生産活動は資源を多消費し、売れ残った製品は廃棄物となるばかり。いずれにしても長続きするわけではない自転車操業、生産を止めたら倒れてしまう。だから必要のない時に生産を止めることが出来るように大地の上に足をのせておくことが必要なのです。
 労働の形態が終身雇用的なものではなく、それこそローテーションを組んで交代でこなしたり、ワークシェアリングという形で仕事を分け合って、限られた人件費を分かち合う。言ってみれば、みんなが非正規社員になるようなものです。今まで経営者といえば従業員の何倍もの給料をもらって当然と思われてきたかもしれませんが、この先は企業自体が雇用者、被雇用者という分けられ方ではなく、みんなの職場として運営できるように、株式会社であれば社員も株を分かち合い、作る側が使う側の使い勝手をよく吟味し、長持ちする製品を世に送り出してこそ、働き甲斐があるというものです。日本でもかつて数十億円の年収を世にはばかることなく受け取る企業経営者がおりました。海外に出れば日本人から見て目のくらむような高額の報酬を受け取る最高経営責任者があちらにもこちらにも目につきました。

 一体その強欲を抑えるために少しでも宗教の力、信仰の力が役に立ったでしょうか。ましてや政治は全く無力といってよかったようです。お陰でちょっとした富裕層も悪びれることもなく、マネーゲームに励み、バブルの時代を演出しました。新しい経済的身分制度が出来上がってしまったかのようです。かつて、お金は人々を身分から解放したと思われた時もありました。しかし、今では持てる者がますます富むような流れが、新しい身分制度として固定化されつつあるようです。貧困の解消などほど遠い現状です。パワー・ポリティクスが未だに通用している結果です。