総選挙で落選し 自給自足の暮らしへ

 実は私は15歳の時に志を立て、将来、政治家になりたい、この世から武器と貧困をなくしたい、一足飛びに国連の事務総長になりたいと思って、25歳で被選挙権が与えられる日本の選挙で、衆議院議員に立候補しました。26歳の時で、当時のその時の選挙では、全国最年少の二人いた候補の一人でした。かなりお金も使われて、しかし落選しました。落選したあと、このやり方ではとても自分の考えた政治的課題は解決しないと思いました。なぜならば、国会議員に求める人々の期待は、私が考える政治の方向とは全くかけ離れていたからです。


 私の中心的な課題は、人口問題を軸とする食糧、環境、エネルギー、資源のまさに持続可能な使い方の道を拓けるかどうかということであって、選挙区の利害を代弁するような気持は私にはなかったからです。


 落選して3年ほど選挙違反の後始末とこれから先の自分の身の立て方を考えました。その間に有機農業とマクロビオティック(精白しない穀物、菜食を軸とした食べ物の選び方、食べ方によって、健康長寿を目指す運動)に出会いました。要は人々の食べ方が世界を変えるというようなことです。30歳のときに改めて自分の志を実現するために、人々から信任される政治家となるまでの間は、食料の自給自足を徹底してはかり過ごすことにしようと腹に決めました。


 私はマネーゲームと言われるお金がお金を生むというような、私からすれば経済活動とはとても考えられぬ博打のようなゲームが、しかも持てる者がますます持てるようになるシステムが放置されたままでいることがいたたまれませんでした。

 第二次世界大戦、日本でいえば、太平洋戦争が終わった後の戦後復興のなかで、日本は高度経済成長、いわば産業の大爆発ともいえるような時代に入りました。そのきっかけは、朝鮮半島の人々にはとんでもない災厄となった朝鮮戦争の特需でした。人々の不幸を種にして、経済復興の足がかりにしてしまったわけです。同時にそれは米国による、日本を共産主義の防波堤にすることを含めて、極東にテコ入れする西側の都合でもあったわけです。


 おかげで都市化がどんどん進みました。海岸には臨海工業地帯が連なり、都市近郊の農地は宅地となり、多くの主要河川にダムが造られました。都市へ、都市へと人々は向かい、まさに都市は大地や海や自然環境が生む様々な生産物の一大集積地となり、大きな胃袋となって消費の摩天楼を築いてきたわけです。土地も投機の対象となり、まさにその果てが80年代の不動産バブルにつながったわけです。いずれはじけるとわかっていても、当時の不動産業界では黙ってみていれば自分たちは振り落とされるとばかりに、みな競ってバブルのお金を膨らませるのに邁進したわけです。誰も止められなかった。経済学者も、政治家も。こういう世の中の動きでは、とても先があるとは思えませんでした。


 私は20世紀のうちに、人類は破局を迎えるとほぼ確信していた人間ですので、もし食糧危機が生じた時にはどういう働きができたかはわかりませんが、たぶん世界のどこかで命を使い切って果てるだろうとそう思って過ごしてきました。ちょっとまた私の選挙の頃の話に戻りますが、私が一足飛びに衆議院の選挙に出られたのは、実は家の背景もありました。簡単にいうなら、戦前、所帯数500ほどの村の中で一番の地主となっており、祖父の男4人兄弟のうち、3人は、明治の中頃から後期にかけて帝国大学などに進むことができた家で、祖父は戦時中、一期だけ翼賛代議士を務めたことがありました。翼賛代議士になったくらいですから、特別、政治的な野心があったわけではなく、あえて言えば、地元ではそれなりに徳望があったといってもいいのかもしれません。その当時、村の信用組合の組合長などをしておりましたが、村の人々に貯蓄を奨励し、熊本県下では信用事業で優秀な組合だということで二度ほど、表彰されたこともあったようです。元々、当時の東京帝国大学の造船学科を卒業した工学士でしたから、俗にいう政治の世界とはかなり距離をおいていた人物だったことに違いありません。だから、25歳、26歳の若者が突然、国会議員の選挙など、出られるわけではないわけですが、選挙に必要な資金は父親が企業献金と自ら抱えていた資産の処分、よそに宅地などを持っていたようですが、それを処分して、私が把握しているところ、5000万円を超えるお金をつぎ込みました。そんな選挙をしたわけです。


 でもお話したように、野良に立って、自ら鍬を振るようになって、東京で生まれ育った人間でしたが、できる限り機械を使わずに、もちろん農薬や化学肥料にも頼らず、汗を流すことによって、目のうろこがどんどん落ちていったのです。以来、お米作りも30回を数えました。
 途中、何度かできなかったのは、私には娘が二人いますが、お産のときは私が取り上げるという約束を妻と交わしていて、基本的にお産は、温かい時期になるように塩梅しました。なぜなら、石油製品や電気エネルギーを熱に変える暖房を用いたくなかったからです。お米の収穫が終わった頃に赤ちゃんを取り上げることができるようにも考えていたわけです。二人のお産は、7月と8月にあったわけですが、実は長女の出産予定日は9月の下旬でした。二か月以上早まったのは、ちょっと妻が無理をして、破水してお産が早く始まってしまったからです。この一件は長くなるので割愛します。いずれにしても、未熟児だったので、保育器に入れろとお医者さんからは言われたのですが、その子も我が家で未熟児に特有な障害が起きないようにトレーニングしました。それも勤めていなかったからできたことで、私はまがりなりにも大学まで卒業させてもらった人間なので、助産婦のテキストになるようなものを手元に置いて勉強しました。
 他にもできなかった時があったのは、地籍調査という土地の実測測量で、所有土地の境界をすべて明確にしなければならない事業が進められていて、日本でいえば、狭い土地の一筆一筆に登記簿が作られているところの300いくつかの境界を幅1メートルで薮はらいをしなければならない、これは主に山林の話です。測量の結果は、山林で約180haというものとなりました。日本でいえば、かなりの山林地主に聴こえるかもしれませんが、中核林業家と言われる人たちは100haほどの山林を保有しているのが普通と言われています。
 しかし、よその国にいけば、県単位くらいの広さを持つ大地主もいるわけで、いずれにしても小作人を使って不労所得を生むような土地所有制度は人の社会に馴染みません。

 私の場合、戦後の農地改革で暮らしに振り向ける不労所得は手にすることはありませんが、使いきれない農地を人が使う場合にはその土地の固定資産税分だけを実費でいただくようにしています。