お金は持つものではなく、回すもの

 これからはいかに消費を抑えるか、すなわち省資源、省エネの社会に向かわなければ、人類のみならず、地球生態系が大きな影響を受ける時代になってしまいました。極論するならば、過剰な人類社会の活動が、地球の生命史上の第六次の大量絶滅の時代を招く恐れさえあるわけです。お金をより多く手元に集めた人は、それだけ社会的責任が大きく、その人のお金の使い方がその人の品性を表すことにもなるわけです。お金は持つものでなく、回すものと心得ましょう。


 お金をたくさん持つということは、人の生産したものをより多く買えるということにもなるわけですが、お金を消費することに慣れてしまうと、実は自分では何もできなくなるのです。お金が無くなれば、それこそご飯粒一つ作ることが出来ない裸の王様になってしまう。しかしそれでもまだ、今の時代、能力のある人は高い報酬をもらって当たりまえという感覚が人々の心に沁みついたままです。スポーツの世界など人気ある人たちが高額の報酬で雇われている話を聞くと私は心淋しくなるのです。もちろん本人は人一倍の努力をしているから、ある程度の報酬を手にすることはやむをえないかもしれません。でも私から見ると、その人一倍努力できるという才能も、すでに天から恵まれた才能であって、天与の才能に恵まれ、人々の注目を集めている上に、また人間の社会から大きな報酬をもらうということは、私からすればご褒美の二重、三重取りのように見えるのです。私の感覚ではすでにこれだけ恵まれているのだから、恵まれた分だけ恵まれなった方々に回して、少しでもお互いに気持ちよく心を通わせる、笑いあえる社会を実現したいと思うのです。


 強いものが余計にとったり、恵まれたものが過分に報酬を得たり、それはやはりそういう姿を見せびらかすことによって人々の欲望を刺激した方が、経済の発展を実現すると思っている人たちがまだいるからなのでしょう。その道の果ては、貧富の格差がますます拡大し、安い賃金で働く人たちや職を失う人たちが巷に溢れ、社会不安が昂ずるばかり。もし私が義務教育をやっと終えるか終えないかで社会に放り出され、仕事にもなかなかつけず、家族とも離れ離れになり、それでも生きて行けと言われたら、どうやって身を立てたらよいでしょう。縁あって助けてくれる人にも出会わなければ、世の中を恨み辛んだ挙句の果てに盗むか脅すか騙すかして、何らかの日々の糧を得ようとするでしょう。高い報酬をもらう政治家が、そういう人々の心の動きを自分自身の心の動きと重ねることができるでしょうか。